能登の未来

FUTURE

おもてなしの能登

  • Facebook
  • X
  • LINE

投稿者

大森みどり

100年後の能登

 18歳の時、大学行くために能登を離れるわたしは能登の50年後について考えていました。
 大学、短大もなく就職先も少なく、同級生の⅔程が金沢や県外に行かざるを得ない能登。大学を卒業して能登の小学校や中学校で教師をするために戻ってこようと思いながらも、50年後能登に学校がどれくらい残るだろう。
 富山へ嫁ぎ、子供ができた頃からどんどん能登へ帰りたい気持ちが膨らんできました。なぜなら子供時代の楽しかった能登を子育てしながら思い出していたからです。
 妹や友達と家から水着で走って造船所から海へ飛び込んだり、シタダメ(貝)を穫ったり。中学校の裏山であけびを採ったり野いちごを食べたり。学校の行き帰りも草花を摘んだり食べたり魚釣りをしたり。毎日が遠足のようでした。三姉妹の長女で築50年以上(当時は築50年以上でしたが地震で全壊したときは築100年以上)の家を継がなきゃいけないという重圧をわたしにかけていた祖父がいた小学校の時でさえつらいことも海で泳いだり魚を釣ったりしているときは楽しかったです。
 もうひとつは祭り文化があります。わたしが住んでいたのは鵜川なのでにわか祭りですが、宇出津や矢波、波並のキリコ祭りなど、普段の10倍くらいの人が町に現れます。知らない人にもごちそうやお酒を振る舞う祭りで、にわか祭りの準備は男性や子供たちはにわか(山車)の準備、女性はごちそうの準備に明け暮れます。祭りだけではなく普段から親戚や知り合いがくなると張り切って食事を作ります。豪華ではないけれども手の混んだ昔ながらのごちそうです。能登のひとたちはもてなしたい気持ちが強いように思います。まさしく「能登はやさしや土までも」です。どんなに貧しくても訪ねてくる人をもてなしたいのが能登だと思います。
 能登は100年後も誰かの故郷です。祖父が心配していたのは家でなく家から人がいなくなると戻る場所がなくなる子孫がでてくることだったのではないかと今は思います。
 今回の地震でやはり陸の孤島となってしまいました。なので道路の整備や空路、海路の確保は必要です。しかし捕れる魚の種類が変わっても栽培できる果物や野菜が変わっても自然を大事にし、もてなす心を持つ人がいる限り能登は永遠に50年前の能登と変わらないと信じています。


  • Facebook
  • X
  • LINE
TOP